三島由紀夫「天人五衰」

豊饒の海 第四巻 天人五衰 (てんにんごすい) (新潮文庫)

豊饒の海 第四巻 天人五衰 (てんにんごすい) (新潮文庫)



 昨年読んだ本の自分メモ的感想をずっとあげないままで、随分溜まってしまったので、そろそろぽつぽつとでも消化していこうかと。という訳で、三島は「豊饒の海」シリーズ四部作の最終巻。

 あ、一応先に書いておきますが、物語の結末について以下で多少触れているので、これから読もうとしている方はお気をつけください。どうぞよろしく。

 一部「春の雪」の完成度の高さ、二部「奔馬」で募る今後の展開への期待、そしてそれを微妙に裏切られる停滞の三部「暁の寺」(苦笑)を越えて、物語はいよいよ最終章の四部「天人五衰」へ。凄かったですよ、四部。まさに怒涛の結末。やはり四部を読まないと、この作品は意味がない。二部・三部が多少つらい方も*1、四部まで頑張ることをお勧めします。また、それぞれの巻に散りばめられている、宗教・哲学的な遣り取りや考察は、きちっと概要を押さえて読み進めましょう。そうでないと、巻が進むごとに物語の把握が難しくなります(苦笑)。
 二部・三部は、勢いのようなものが少し感じられず、中だるみのようなものを感じてしまって、どうなのかなぁと思ったのだけど。四部の終幕へ向かう道程と考えると、この、やや停滞した感も含め、やはり四部全て揃って、一つの大きな物語だなぁと納得させられる。それを狙って書かれているものだから、それは当たり前なのでしょうが。四部の幕引きはまさに圧巻という勢いでした。この勢いを、三島自身が書き急いだ為のスピード感と捉えるか、作品の狙いとしての加速度と捉えるかは、個々人で感じ方も違ってくるだろうと思いますが。私は四部の最後、まくし立てるように一気に結論に肉薄していく加速度や疾走感に、単純にとても心地よい緊張として味わえました。特に四部の最後、透に語られる話とその揺さぶりかけるような相手の語りと、最後の最後での謎掛けのような問答には、本当にぞくぞくしました。
 また、一部では主人公清顕の脇で彼を支え、二部以降では大きな物語語り部となる本多が、巻が進むごとに本多は年を取り、二部では三十代、三部では五十代、四部では八十に手が届く年齢になっていく。一部で若さ故の潔癖や頑なな理論武装を自分そのものと思っていた本多が、二部ではもう少し柔軟さを得、三部では若さに対しての眩しさを感じる年齢になって、それを感じる自分に自覚的になる。その辺りの、物事に対する感じ方やそれを表現する描写が実に精緻。読み進むのが楽しみに感じられたのは、一つにはこの人物描写の書き分けが、心憎いまで鮮やかであったこと。この点がとても大きかったですよ。
 修飾表現の多彩さ、秀逸さ、文章の美しさに、一文読むごとに唸らされ、溜め息を吐かされるというような具合。目配せや指先のふとした表情に滲む感情を細やかにしっとりと描いて、けれど決して湿っぽくはならない。情感に訴えすぎない、引いた視線で付かず離れず物語に寄り添う視線を感じる文章は、やはり流石と言う他ないのでありました。名作と呼ばれるような作品に触れる時に感じるのは、こういう文章そのもののポテンシャル。この作品を日本語(つまり原文)で読めるということは、きっとすごく幸せなことなんだ。



 彼等(二部では勲、三部ではジン・ジャン、四部では透)を、清顕の転生した姿だと確信した本多は、彼なりのやり方で彼等にかかわり、保護出来るならば保護したいと願うのだが、四部での本多はこれまで抱いたそうした感情を一周し、愛憎の綯い交ぜになった捩れた感情から発した庇護を、透(四部での、清顕の転生した人物)に向けているように思う。
 既に年をとって社会からは一歩隔たって隠棲し、元々自身の生の感情を表すことをしない本多は、老人であることを仮面にして様々な思惑を隠す。長じて我が物顔に振舞うようになった透に、痛めつけられ隷属する素振りを見せても、本多は透の末路を見ることを思って、決して心の底から屈するということはなかった。本多の透に対するその感情は、六十年経ってやっと表出した、清顕への歪んだ情愛の形に見えた。嫉妬の裏返しになるような強い感情が、本多自身でも無自覚なまま、胸の奥底に溜まった感情の中でゆっくりと熟成され、純化・精製されるうちに、かえって大きく歪んでしまった、というような一種異様なものに思えた。
 本多が清顕に見たのは、なにかを超越した「完成形」とでもいうべきものなんだろう。けれど実際の世界に、完全や完璧というものは恐らく存在しない。清顕はなにかの「完成形」であるからこそ、その存在を神に?妬まれて若くして身罷った。本多は清顕にそうした像であったこを無意識に求め、その像に縋ることで、自身を無意識に支える部分があったのかもしれない。多感な思春期に清顕の近くにいて、恐らく本多にも理解の出来なかった(寧ろ最初はそうした感情を抱いていることにすら、自覚すらなかっただろう)、清顕に向かう固執。理性で押しとどめられない感情や執着を、本多は恐らく唯一清顕にだけ持ち、清顕に対してだけそういう感情を抱くことを自分に許した、のかな。

 そして自分の人生の終盤に、やっと自分の感情の赴くまま、正直に行動を起こした時、訪れるのが、あの物語の終幕。尼僧*2にあっさりと投げ与えられる言葉は、実に皮肉だ。

「松枝清顕さんという方は、お名をきいたこともありません。そんなお方は、もともとあらしゃらなかったのと違いますか? 何やら本多さんが、あるように思うてあらしゃって、実ははじめから、どこにもおられなんだ、ということではありませんか?」(「天人五衰」より)

 彼女のたった一言で、これまで本多が大切に身内で育んだ清顕との記憶やその像も、清顕の面影を重ねた勲、ジン・ジャン、透の存在も、それは即ち本多自身のこれまでを、全て足元から瓦解させてしまうような衝撃を持っている。これまで語ってきた物語そのものを否定してしまうような、まるでメタ・ミステリのような結末。
 この言葉が、尼僧が本心からの言葉なのか、あるいは本多に対して意図があって韜晦してみせているのか。それは尼僧自身にしか判らない。
 けれど安易な判りやすさを排除し、謎が解けること、あるいは何がしか結末に達することで得られる安心を排除し、主人公の欲する救済を排除し。場そのものを崩壊させる言葉を尼僧が発したことで、本多が死の直前、最後の最後まで唯一こだわり続けた「清顕」という存在から、解放されたということでもあるのかもしれない。本多にとって性急で容赦ない方法ではあっただろうし、解放された本多がそれを幸せと感じるかどうかは判らないけれど。
 尼僧の、運命に対する苛烈な復讐、その八つ当たりだった可能性を思ってしまうのは、私の考えがいつまでも幼稚だからかもしれない。

*1:三部の途中で投げ出したくなったのは、ここだけの秘密だw

*2:一部で登場した聡子