村上春樹「羊をめぐる冒険」上下巻

羊をめぐる冒険(上) (講談社文庫)

羊をめぐる冒険(上) (講談社文庫)

羊をめぐる冒険(下) (講談社文庫)

羊をめぐる冒険(下) (講談社文庫)



 久々に春樹もいいじゃない、てことで読んでみた「羊をめぐる冒険」。文庫版カバーには「村上春樹の青春三部作完結編」と書いてあったけど、私は「なにとなにで三部作なんですっけね」というレベルです。春樹は一時期読んでいて、決して嫌いじゃないのだが、実のところあまり把握しているわけでもない。私にとっては、そんな作家さんです。

 読みやすさの中に、実に春樹の初期作品らしい独特な言い回しや温度感が溢れている作品でした。「ああ、春樹春樹! しかも超初期の春樹!」と、読みながらその辺りを非常にわくわく楽しんで読んだのだが、いざ「初期の春樹っぽさってなに?」と言われると、なんだろう…。具体的にはちょっと説明しがたい…(いい加減だな!)。
 これはあくまで私の個人的な印象ですが。多分、「主人公が典型的な巻き込まれ型」、「登場人物達の謎掛けさながらの遣り取りと、独特の勘のよさ」、「確信へ迫りながら決して実際に触れてしまわない、一種の回りくどさ」。などが挙げられるでしょうか。そして多分、上記の特徴は同時に、「村上春樹を好きな人は、春樹作品のこの辺が好きだろう」という部分じゃないかと、私などは勝手に思っている。…まあ、ごく個人的な想像として。



「主人公が典型的な巻き込まれ型」だというのは、言葉通りの意味。
 主人公は物語の中心にいながら、同時に物語のなにをも知らず、積極的にではなく「巻き込まれる」形で関わっていくという意味。物語を大きく動かす事件が起きた時、主人公には既に殆ど選択の余地が残されていない。「言う通りにしなければ、どうなるか判るだろう?」、というような誰かの穏やかで優しい、けれど決して異議を挟むことの許されない言葉に背中を押されて、主人公は仕方なく物語の中に担ぎ出されていく。
 この際、春樹作品の主人公の多くに共通する(と私が思っている)のは、ある種の「諦念」の感覚であろうと思われる。これは本当に春樹作品全体に通じる特徴だとも思うが、春樹作品の主人公は常に「なにかを諦める」ことに慣れ、長けている。仕方なく担ぎ出されていく際にも、その結果、どんなに酷い状況を前にすることになっても、大概の場面で彼等はいつも、どこか淡々としたまま、「やれやれ」と呟く。仕方なく担ぎ出され、望んでもいない状況に立たされても、それをあまり腐すこともなく、目前の事態に対して事務作業でもこなすような調子で事に当たる。
 自暴自棄で行動を起こすのでなく、悲嘆してなにもかも投げ出すのでもない。かといって積極的に事態を打開しようとする前向きな熱意があるのとも違う、どこか淡白な諦念。しかしこの「諦念」こそが様々な場面での無用な偏見を削ぎ、作中で遭遇する不思議な事態を前に主人公を混乱から回避する重要なファクターでもあるのだろう。そう考えれば、春樹作品の主人公が示す「諦念」は、決して後ろ向きな意味は持たない。



「登場人物達の謎掛けさながらの遣り取りと、独特の勘のよさ」というのも、やっぱり文字通り。一を聞いて十を知る、というようなことを言いますが、一を聞いて二十も三十も理解したかのような会話が、春樹作品の特徴の一つ。登場人物の間では、言葉を尽くして語らずとも、分かり合える人間とは最初から魂が結びついているごとく分かり合っている。分かり合えない人間とも、「分かり合えない」という点で双方誤解なく相手を理解している。春樹作品での登場人物の遣り取りには、全ての会話が短いセンテンスで成立するような独特の「聡さ」があり、初期作品では特にこの点が顕著に思います。
羊をめぐる冒険」で言えば、たとえば「鼠*1」の知人の女性に会おうと約束をする際、主人公は互いに初対面の相手に対して、落ち合う時の目印代わりに自分の格好などを説明しようとするのだが、相手の女性は「見当はつくからいいわ」と言葉を遮る。後に二人は無事に落ち合うことが出来る。主人公が別れ際「(自分が)すぐにわかりました?」と訊ねると、女性は「すぐにわかったわ」と答える。そこに一切の説明はされないまま、物語は淡々と進んでいく。
 この「聡さ」で理解したことを敢えて言い表さないこと、あるいは直接的な言い回しを避けて表現しあうところ、また物語の中心に向かって直線的に向かっていくというよりは、螺旋を描くように核心に近付いていくところが、春樹作品に特有の「一種の回りくどさ」であると私は思う。これが彼の作品に独特の雰囲気、ニュアンスを与えている気がするのです。

 この「羊をめぐる冒険」もまさにそう。主人公が「鼠」と呼んでいる友人に託された羊の写真を雑誌?に掲載したことをきっかけに、謎の組織に呼び出され、彼は彼自身にもよく判らぬままに、物語の核心へと吸い寄せられていく。物語全体が独りよがりに空中分解してしまう、その一歩手前。絶妙のバランスで、物語の綱の上をふわふわと揺れている。初期の作品は特に最後の最後まで説明を省いて進むので、そんな感じがします。*2
 物語のラストは、登場人物達が以心伝心で、説明が省かれる分だけ突き放された感じも強く、ややもすると飛躍的で判りづらい印象もいなめないように思うが*3、読了後には案外すとんと納まるべきところに納まったという印象が残るのが不思議なところ。



 また、今回ちょっと気付いたのは、この作品には「沈黙」するシーンが非常に多く、その度ごとに様々な表現が用いられている点が興味深かった。
 この作品の主人公は、本当に多くのシーンで「沈黙」をする。なにか意思を表す(たとえば肯定や否定の)沈黙であることもあれば、純粋に咄嗟に次の言葉を思いつけないという沈黙もあるし、中には相手が何がしかの相槌を欲していないだろうという感覚から黙っている沈黙もある。悩んで立ち止まる、停滞の沈黙であることは意外に少ないのも、春樹作品の「沈黙」の特徴のような気もします。
 村上春樹の作品は海外でも多く翻訳され、とても人気があると聞きますが。主人公が巻き込まれ型で、自ら主張することで選び行動を起こすのではなく、多くを語らず沈黙することで相手の出方を伺い、感情を察し、また状況を把握しようとする。もしかすると、この沈黙という控えめな姿勢が、海外の人にとってみずみずしく新鮮なものに映ったのかもしれないと、ふとこれを書きながら思ったりしています。他の作品も、改めて再読などすると、新しい発見があるかもしれないなぁ。

*1:友人の呼び名

*2:春樹を好きな人が、春樹に影響されて小説の真似事などしはじめると、痛い目にあうという話を聞いた事があるのだが(苦笑)、まさにこのバランスの問題なんだろうね。一本、筋の通った道筋を選んで、きちんと渡りきることができなければ、単なる雰囲気小説(雰囲気だけはむんむんとあるが、テーマとか中身がないという意味)になってしまいかねない。そういう危うい綱渡りが、春樹という才能だから可能、ということなんだろう。

*3:これは作品を重ねるごとに判りやすくなるので、初期作品だからこその春樹という書き手の「ケレン」なのかもしれない