ダブリンの鐘つきカビ人間。

 好きな役者が多く出ていて、お話も面白くて、見る前から「間違いなく外れない」と読んでいた舞台。録画しておいた劇場中継を見て、「やっぱり外れなかった」と思った芝居でした。ただ既に舞台を見た方はご存知のように、この物語は、あまりにも切なく、寂しい。あの物語の最後に起きた奇跡とは、一体なんなのか。芝居を見終わった後、ふとそんなことを物思わずにはいられないお芝居でした。
 もうね、真っ先に言おう。



 市長と神父が最高。もう、馬鹿! ……好き! 



 ↑(笑)
 あ、以下、物語の筋に触れていますので、ご注意くださいね。



 ある男女が旅の途中、濃霧に道を失って、一軒の家でしばし体を休めさせてもらうところから、この物語は始まる。男女は、たった一人でその家に住む男から、その場所に昔あったという町の話、町に起きた不思議な物語を聞かせてもらう。住人の男性がストーリーテラー的な存在となり、男女は徐々に住人の話す物語の中へ、次第に取り込まれていく、というもの。
 ストーリーテラーでもある住人の話す物語は、大きく分けて二つの流れによって構成されている。
 一つは外見は醜いが心は純粋で美しい「カビ人間」と、思ったことと反対の言葉しか口に出せない「おさえ」のお話。もう一つは、カビ人間やおさえ達の住んでいる市に起こる数々の奇病*1を治す為に、奇跡を起こす剣を探しに行くお話。二つの流れが交互に折り重なるようにして、最終的に交じり合い、一つの物語になる訳ですが。
 判りやすいストーリー、そして判りやすいギャグ(笑)。とにかく全編気楽に楽しめる、面白いお芝居でした。いやぁ楽しかった。大真面目に馬鹿なギャグをし続ける芝居を、そういえば久々に見たなぁと思いました。あはは。こういうの、たまにすごく見たくなるよね。ああ、うんうん。いかにも後藤っぽい笑いに満ちた舞台でしたよ。



 私はあの物語の最後に訪れる「奇跡」がなんなのか、おさえの望んだ「奇跡」がどういうものなのか、よく判りません。おさえが奇跡を起こす為に、最後に叫んだ言葉は、

「奇跡なんかクソくらえ」

 だった。それは、本心と逆の言葉しか発することの出来ない彼女にとって、「奇跡は必ず起きるんだ」と信じる証でもある。あの悲劇的な状況の中で、彼女が信じた奇跡って、一体何なんだろうか。それがどうしても判らない。ただカビ人間とおさえは死んで、奇跡は起きた。他の市民の奇病は次々と治り、彼等の死は――おさえの望んだ奇跡は、街に幸福を呼んだかに見える。それでも市長には、別の呪いがかかっていたようだし、街は何故か滅んでしまっている。そうした物語の結末の意味を、捉えかねているところがあります。実は何度か見直して、随分考えてみたのですが、整合性の高い解釈をうまくひねり出すことが出来ない。

 それは私があのお話を、ちょっと素直に受け入れていないからかもしれません。というのは、あの物語に対して、ちょっと残念だなと思ったところがあるから。それは「カビ人間」の扱い。物語のタイトルに名前を冠された主人公である、「ダブリンの鐘つきカビ人間」の描かれる時間が、作中であまりにも短く感じられてしまったということ。
 物語を一番大きく変えていく、核心である登場人物だけに、カビ人間とおさえの心情の移ろいを感じさせるようなシーンは、もっと時間を割いて丁寧に描かれていてもよかったかなと思う。というか、個人的にはもっと沢山、彼等のシーンが見たかった。
 純粋で一点の穢れもない心を持ったカビ人間であるからこそ、おさえの裏表の言葉を真に受けたり、後に自分に向けられた好意の「罵倒」を本当に真っ直ぐに受け止めていく。だからこそ、大して時間を割かなくても、彼等の結びつきの強さが生まれる過程をさほど重要視しなかったのかもしれないとは思う。しかしそれでも、おさえの側では、そんなにあっさりと生理的に嫌悪していただろうカビ人間の好意を、すぐに受け入れられるようになるだろうか。私がおさえというキャラクタの設定を理解していないのかもしれないけれど、私はもうちょっとおさえが感じる、カビ人間に対する気持ちの揺れを、表現したシーンがあってもよかったのではないかと。そこだけいかにもご都合主義っぽい展開に思えて、少しだけ物足りなくて、残念に思いました。
 二人のシーンは全体的に地味で、判りやすいギャグを詰め込もうにも動きも少なく、その逆に剣を探してさすらう方は、ギャグ好きに詰め込み放題という流れであることもあって(笑)、どうしても比重が、カビ人間とおさえを離れがちなのも仕方が無いのかなとは思う。お話を、二人の心の結びつきから発露する「奇跡」という存在に向かって収束させるのなら、二人はもっと丁寧に描かないと説得力が欠けてしまう。そういう「物足りなさ」は、正直残りました。



 ただ、そういう部分をどうでもいいと思えるくらい、やっぱり全体に面白かった。豪華な出演陣がそうした小さなこと*2を飲み込んで余りある熱演を見せていたように思います。いやー単に私が好きな役者が沢山出演していたからかもしれないけど(笑)。
 特に役としても個性的で、演者によって遊び放題といったような市長、神父、戦士という辺りは、本当に楽しんで「遊んで」いた。彼等だけを見ていても、充分楽しかったのじゃないだろうか。少なくとも私はきっと楽しかった…楽しかったよ…! 市長・池田成志、神父・山内圭哉、戦士・橋本さとし、というキャスティングで、市長・神父が所謂「悪代官と越後屋」、戦士が一応正義のヒーロー的な役回りなんですけれども。両者の絡みは殆どないながらも、この三人がそれぞれのシーンで非常に「立って」いて面白かった。いやもう、怒りで本気で白目剥いてる橋本さんとか、怖キモくて最高だったよ(笑)(褒めてますよ!)。

 山内圭哉さんという役者さんを、この芝居で初めて見ましたが、すごく面白い役者さんですね。ここ数年、舞台を見に行くこともなくなり、劇団や役者にも本当に疎くなった私にとって、久しぶりに「ああ、面白い役者がいる!」という発見に心が満ちました。動向に注目したくなるような役者に巡り会えるって素敵なことですね!
 きちんと滑舌が切れていて、声の量や高低もコントロールが場に繊細に合わせられている。見場もいいし立ち振る舞いも一つ一つ考えられて、きちんと役を構築している感じがある*3。でも神父としての威厳ある振る舞いした次の瞬間に、軽薄なまでの演技も板についている*4
 興味が沸いて、ちょっとばかり検索してみましたところ。なんでも児童劇団などにいたりして、小さな頃から芝居をしていらした方なんですね。上述したような辺りの役を演じるに当たってのスキルの積み上げ方が、なんとなく他の役者さんと少し違うかなと思ったのは、そうした経歴が透けたからかもしれません。で、以前はリリパにいらした、と*5



 あ、あと土屋アンナも特筆しておこう。いい意味であの舞台の中に「異質さ」を持ち込んでいて、一己の個性としてのキャラ立ちに成功していたかなと思ったのです。滑舌などは正直物足りないし、ナリで喋っているなぁと思う部分も多いのですが、それでも他の役者にはない一種独特の「ナマっぽさ」が彼女にはあって、それが彼女演じるところのマナミという役の雰囲気を作るのを上手く助けていた。彼女の演じるマナミが、住人の話して聞かせる「物語」の世界へ入り込んでいくように、彼女だけが渋谷とか池袋とか――まあ場所はどこでもいいけど――とにかく「実際にある、リアルな街」から、舞台の世界に入り込んでいるような印象があった。それがあの役とあの物語の中で非常に有効だった。

 まあ難しいことなんか、最終的にはどうでもいいのかな。DVDなど映像として残る場合も増えてきましたが、しかしそれでも本来、映画や本みたいに「後に残らない」表現である舞台にとっては、楽しかったと思える手触りを残したことが、一番大事なことかもしれないなと、ふと思ったりしてみる次第です。

*1:そもそもカビ人間やおさえが、醜い外見になったり思ったことを口に出来なくなったのも、その奇病が原因

*2:正直小さくないとは思いますが…

*3:これ、舞台俳優として当たり前といえば当たり前かもしれませんが、案外「一本調子」な役者さんも多いと思うのです。それはそれで、その役者さんのあり方だし、決してそれが悪いという訳ではありませんが

*4:偉そうな物言いをして申し訳ないことです

*5:道理で知らないはずだ。そう意識した訳でもないのに、私は何故だか全然リリパと縁がない。まあどちらかといえば関西拠点の劇団などは疎かったりします