今日の観戦中、気になったこと。

 私の席から一つ席をおいた隣に、小学生(多分)の男の子二人が座っていた。子供は90分間、ずっと集中を途切れさせずに観戦するということが難しいだろうから、大概は途中で喋って騒ぎだしたり、お菓子を食べだしたり、まあ色々するものだろうと思うが。この二人は大人と一緒に来たわけでもなさそうなのに、特に騒ぎ出すことはなく、非常に大人しく座って観戦していた。逆に言えば、マリノスが好きで興奮するとか、そもそもサッカーが好きで興奮するといった空気でもなかった。まあ、そこは別にいいんだけど。

 試合が進むと、見ている側も当然徐々に盛り上がる。私が座っていた辺りからちょっと離れた後方に、わりにガンガン躊躇わずにヤジを飛ばす集団が座っていて、彼等のヤジも当然時間を追うごとに白熱し、派手に、内容もシビアできつい(時に心無い?)ものになっていった。
 隣に座っていた少年二人は後半途中から、なにを思ったものか、後方から大きな声でヤジが飛ぶ度に、「逝ってよし」と言って薄ら笑っていた。ヤジの内容に対する少年達なりの揶揄なのか、それとも試合内容その他に対して「熱狂する人達」に対する冷めた感情を表した、皮肉のつもりであったのかもしれないと思うのだが*1
 たかだが10歳、いって14歳にはなっていないだろう年の少年が、そうした気分の時に呟く台詞が、「逝ってよし」であったことに、なんかとても虚しいような、寒いような心持ちがした。電車男が流行って以降、オタクと呼ばれる人達の文化であったり言葉の独自の用法などが、一般に流出して面白おかしく*2扱う風潮がメディアに広まったので、「逝ってよし」も、そうした中で少年少女の年代にまで浸透したのかもしれないのだが。それにしても、そんな言葉が少年の日常に浸透する、現代日本社会ってどうかしら、と思わずにはいられませんでした…。



 あと、どうでもいいけど、結構強烈なヤジを飛ばし続ける人の尻馬に乗って、ずっと「そうだそうだー!」と言っている人がいて、それにも微妙な気分を味わった…。せめてヤジる時くらい、自分の言葉と意見でヤジったらいいのにと思った。私はヤジを推奨しているわけではないが、「そうだそうだ」って、なんか中学生日記とかの台詞みたいです。どこのクラスにも一人くらいいる、虎の威をかる狐的キャラクタの子の典型的台詞みたいで、すごく居心地が悪い気がします…。
 自分が積極的にヤジっている人は、まだしもある程度、自身の中でその強い言葉を発言する為の心構えがありそうだが*3、「そうだそうだ」という言葉には、「同調しているだけ」という印象が強く、どうしても心構えがなさそうに周囲からは思われてしまうと思う。心構えってなにって話ですが。まあ、「その発言、直接面と向かって相手に言えるかどうか」という部分を、意識してヤジるかヤジらないかで、重みが違うよなという話。私がたとえどんなに虚しい試合でも、選手をヤジらない最大の理由は、多分そこだ。
 面と向かって言えない言葉を、多勢に無勢にならざるを得ない状況の人に向けるのは、やっぱりちょっと違うと思う。感情的な言葉を向けるのには、それだけのリスクが本来ある訳で、それを背負う自信とか勇気がなければ、言っちゃいけない気持ちがするのです*4。これはあくまで私の考え方でしかないので、誰かに押し付けようと思って言うわけじゃないけどね。
 ヤジは面罵だ。理性的に「ここが良くない」と指摘するのとは、意味が違うから。少なくとも私は、こうは言えないな、と思う言葉を選手に投げる人には、それだけの気持ちがあるのだろうなとぼんやりと思う。もっとも試合の内容等によっては、選手は常にブーイングやヤジの矢面に立たされるのが当然の仕事でもある職業でもあるので、何度も言うけど、私は「選手を悪く言ってはいけない」と言っているわけじゃない。悪いところがあれば、当然批評されたり指摘されたりするだろうし、彼等はそれを受ける立場にいる人間だ。ただ私は言葉の意味とか重さを考えると、少なくとも度を越えたヤジのようなことは出来ないと思って聞いている。
 そうした中で、「そうだそうだ」という同調のみの言葉は、それは果たしてヤジなのだろうか、と考えるのだ。Σはっ。


 ……合いの手?(違!)

*1:というのは、その少年達は、サッカー好きで見に来たのか判らないくらい、なんとなく見ていた(という印象だった)から、熱狂している人がバカらしく見えたのかなと思うからなのだが。

*2:実は面白くはなかったりもするし、微妙な誤用も多いと思うのだが、それはさておき

*3:というか、あってしかるべきだとあくまで私は思うが

*4:スタジアムでは客席の顔まで選手には見分けられないので、リスクなど無いように思われがちだと思うけど