「天保十二年のシェイクスピア」

 出演:唐沢寿明篠原涼子藤原竜也夏木マリ高橋恵子木場勝己吉田鋼太郎高橋洋 他。
 キャスト陣もそろいも揃って超豪華な、井上ひさし脚本、宇崎竜童音楽、蜷川演出による、長大で猥雑*1なお祭り芝居でした。

 劇場中継が放送されてから、気付けば結構経ってしまったのですが、見るのに覚悟が要ったからです。何故かというと、放送枠が4時間も取られていたから。…。本当に長い作品だということは知っていましたが、あまりの長さ故、上演されることすら稀だということも知っていましたが。しかしそれでも、自分が実際録画であれこの作品を見ることにしてみると、見始める前は「これ、放送するのに4時間を必要とするってことは、劇場に見に行った人は途中恐らく休憩を15分前後挟むだろうし、それ以上の拘束時間。ソワレ*2何時開演?! 終電大丈夫?!」と、どんだけ長いんだよと、実は眩暈を覚えたりしたものです。
 実際のところ何時開演の公演だったのかは判りませんが、本編録画は4時間の内訳が「本編+休憩1分+役者インタヴュー20分弱」という感じの内容で、芝居本編そのもののランニングタイムは、どうやら3時間40分前後だった模様です。この芝居に関しては噂に聞こえた?超大作なので、4時間切ってるだけでありがたいよねと、正直思いました(笑)。
 とにかくただただ楽しんだ3時間半でした。以下は、だらだらと長文雑感。
 主に役者さんについての感想くらいしか触れていませんが、多少お話の筋(というかネタ)についても触れているので、もしこれから見る予定のある方は一応その旨、ご注意ください。



天保十二年のシェイクスピア」は、そのタイトルの通り、シェイクスピアの作品世界を天保十二年の日本に置き換えた作品。シェイクスピアの作品は、彼の生きた当時の貴族社会をメインの舞台に描かれているが、この作品では、日本の中でも、とりわけ庶民の生活の中に再構成させる試みがなされている。脚本の井上さんがこれを書いた当時の日本社会の風刺や批判の要素もあって、敢えて粗野で下品な部分をたっぷり組み込み、芝居の世界に風穴を空ける意味でも意図的に猥雑な作品に仕上げたと、どこかで聞いたように思います。
 当時の日本社会というものの中で、「危険で挑戦的」だったそれらが、しかし現代社会においては、随分当たり前になりました。当時の戯曲の中できわどいと思われていた言葉も行為も、結構日常レベルで接する物事のようになっている。井上さんは、今回蜷川さんが演出するに辺り、脚本に抜本的な加筆修正を加えたらしいのですが、私は以前の戯曲に触れたことがない。以前とどう変わったということは判らない。だから今回のお芝居を「以前のような社会に対する挑戦でなく、もっと現在の劇社会や蜷川に対する純粋な挑戦」の意図で、書き直されたのじゃないかなと、なんとなく思いました。
 あくまで勝手な想像に過ぎませんが。演出をした蜷川に、そうした気持ちはあったのではないかなと思う。それが私には、そう受け取られたのじゃないかという気がしています。「上演できるもんならやってみな」という感じで上がって来た脚本を、「よし、じゃあやってやる」みたいに蜷川が挑んだから、私には「社会に対して」という部分より、「現在の舞台に対して」向かっている要素を沢山感じたんだと思った。

 今回の作品。シェイクスピアの戯曲36作全てを登場させるという、もう一つの試みがあるものでした。が、私はあまりシェイクスピアを詳しく知らない為に、どれだけ作品を細かい部分まで理解して見られたか、全く自信がない。勿論そんな素地がなくとも、ただ見ていても充分に面白い作品だったのだけど、あらすじだけでもきちんと押さえていれば、もっともっと楽しめたかなと思うと、それはちょっと残念…。
 ちなみに私が知っているシェイクスピア作品は、ハムレットロミオとジュリエットリア王ヴェニスの商人テンペストマクベス十二夜、くらいかな…。四大悲劇が何かも思い出せないよ…('Д`lll)? ハムレットとかロミジュリとかは、それでもメジャーな作品だし何回も見ていることもあって、それを模したシーンは大体判って見れていたと思いますが、あとはどうかな…(苦笑)。一番最後の木場さんの台詞は、テンペストっぽい終わり方だと思うんだけど、あれは意図したのかしていないのか…。戯曲の範疇じゃない偶然?←聞くなよ!



 ちなみに私にとっては「シェイクスピア=生き別れの双子ネタ」ですが、これも当然出てきました。熱演したのは篠原涼子。何度早替えあったんだろう…大変そうだった(笑)! 時代背景から当然衣装は皆さん着物ですが、あれ全部、きちんとした着物だったのかなぁ…。今ツーピースの着物とかありますよね(笑)*3。それとも介添えが複数いてくれれば、通常の着物の方が着替えに手がかからないかしら。着物を着ない私には全然、そうした部分の想像がききませんが。
 篠原涼子、どうなんだろうと思ってたけど全然気にならなかった。欲を言えば、もっとと思うところがないでもなかったんだけど、彼女の持つ女性らしさ、役の中のかわいらしさ、凛とした強さみたいなものが作品の中で活きていて、思いのほか良かった*4
 リア王の三女に当たる役を演じる彼女が、高橋恵子演じる長女の開く賭場にやって来るシーン、黒を貴重にした衣装のりりしさが彼女のすがしさを一際際立たせていて、かわいかっこよかったなぁ。
 メインで芝居の軸を担っていく役者さんの中で、女性の中では篠原涼子が実年齢で一番若く、実際一番年若い女性の役を演じているのだけど、年長の貫禄ある他出演陣の中で、言ってしまえば初々しさみたいなものがすごく新鮮で、素敵な女性に見えた。
 またこれは特に藤原竜也に思ったことなので後述しますが、彼と共に篠原さんには、若やいだ独特の潤いというか、生きたみずみずしさみたいなものが自然溢れていて、魅力的でした。



 そうした篠原さん演じる役と対照的だったのは、高橋恵子さんと夏木マリさん。表と裏を使い分け、女主人として渡世を生きる為の強さや狡猾さを熱演。経験の差が、彼女達の演じる大人の女性を生かし、他の女性役との良い意味での差別化がはかられていたように思います。
 特に圧巻だったのは、やっぱり夏木マリ。大好きな女優さんの一人なので、今回の芝居に彼女が出演するということは楽しみの一つだったのですが。二人が唄うシーン、言葉の意味を充分に噛み砕いた懐の深い彼女の歌唱力は、以前から定評のあるところで、これはもう流石といった感じ。渋みを帯びた声と、絶妙にコントロールされた声量や強弱には、本当に舌を巻きました。
 また彼女の演じる次女の役が実に面白くて。欲望に忠実で、だらしなさや汚さとか伝法さ。好きな男にしな垂れる弱さ、そしてその男を支える為の強さみたいな、いいところも悪いところ全て、本当に人として正直でいとおしくなるくらい。本当に出し惜しみない演技で(笑)、彼女を満喫できたような気分になりました。まあマリさんはこんなもんじゃないと思いますが、本当に楽しかった。彼女自身も、何を出しても周囲が安心して受けてくれる度量のある人*5ばかりなので、「全力で遊んでやろう」という気持ちで舞台に臨んでいたのじゃないかなと勝手に想像しています。素晴らしかった。



 役者さんとして、この舞台で特に期待をしていたのは、上記の夏木マリさんの他に実は二人いました。一人は高橋洋さん。もう一人はお約束ですみませんが、藤原竜也くんです。
 高橋さんは蜷川カンパニー出身で、蜷川の舞台ではもうお馴染みの役者さんですが、今回は佐助という桶職人の役で出演していました。ここ何年か、私はこの人に本当に注目していて大好きなので、その彼演じる佐助が、毬谷友子さん*6演じる浮船太夫と、すれ違いの果てに添い遂げられず互い死を選ぶ*7、というシーンを演じてくれたことが、単純にすごく嬉しかった(笑)。ああ、佐助…。べらんめぇ調で話芸よろしくとんとんと調子を取りながら、浮船太夫との思い出を語る佐助、浮かれすぎ――なんて言っちゃいけませんよ(笑)。
 また毬谷さんの演じる女性の可憐なこと! ころころと鈴を転がすような声とぱっと周囲に華やいだ雰囲気を振りまく立ち居振る舞い。今回は、上述の高橋さんとの絡みと、ハムレットを模した藤原くん演じる王次とも、オフィーリアを模した役としても絡みがあって、本当に個人的に見所充分でした。ああ。一粒で二度美味しい役どころに毬谷さんを配してくれた蜷川さんにお礼を申し上げたい…。
 毬谷さんはなんと言っていいのか、いつまでも童女のような穢れなさと、悪女の狡猾を両方匂い立たせることの出来る、独特な味のある女優さんの一人だと思う。彼女が、ハムレットを思うあまりにおかしくなってしまうオフィーリアの位置と、吉原で春をひさいぎながら純粋さを失わずに約束を守るべく佐助を探し求める浮船という役を演じることで、彼女にしか出せない色が、芝居に添えられたと思う。まさに適役という気がします。



 唐沢さんについてはね、器用だし面白い味もあるし、やれば何でも出来るんだろう役者さんだという認識で、今回は文字通り「やっぱり」という安心感ある演技で楽しませてくれました。苦みばしった、どこか癖のある、一筋縄ではいかない人物を演じさせるほど、彼は憎たらしいまでに生き生きと、役を生きる。この人も、この芝居の中での主役といってもいい役を演じて、それに相応しい適役だったなと思ったわけですが。シェイクスピアの舞台になくてはならない、吉田さんなどもそう。しかしここでは敢えてそうした役者さんでなく、藤原竜也に触れたい。

 もう、ね。今回の芝居、藤原竜也面白くて仕方なかっただろうなってことです(笑)。

 これまで何度も蜷川演出の舞台に出演経験があり、今更説明の必要もない彼ですよ。芝居もあの年齢の役者としては驚くほどの懐の深さみたいなものを感じさせる、今非常にのっている、今後も楽しみな役者さんですけど。
 本当に、はつらつと楽しそうに見えた。
 彼演じる役は既に出てきたようにハムレットを模した役柄で、名前を「きじるしの王次」。きじるしは、つまりそういう意味の「き」じるし。本当に老練で、円熟味に溢れた俳優さんばかりの今回の舞台、老獪と言っても差し支えないほどの役で周囲が埋め尽くされている中で、一番若くて奔放で純粋な感性に溢れていて、時に幼い正義感と潔癖を持て余し、新鮮なほど行動に対して後ろ暗いところがない。
 勿論元になっているのがハムレットですから、彼は父が最愛の母と信頼していた叔父に殺されたと知り、深く思い悩みます。生きるべきか死ぬべきかシェイクスピアを知らない人ですら知っている、有名なあのシーン。当然のごとく、この芝居でもそれが再現される訳です。―― To be or not to be,That is the question 。煩悶のあまりに、藤原王次は現在までに翻訳されたその台詞を、順を追って遡るのです(笑)。平成から昭和、大正、有名な方の履歴までご丁寧に紹介してくれながら、最古の明治7年の翻訳に辿り着きます。彼の煩悶はいよいよクライマックス、彼は熱に目を潤ませながら――



 アリマスー アリマセーン アレハナンデスカ〜?

 モットダイジョウブ〜? アタマ ナンカ痛イアリマ〜ス


 ――それだけで、どんだけ笑わす気だ藤原竜也…、つーか最古の翻訳をなさった外国の方…*8
 ああ、本当に激しく笑った…。また藤原くんの真剣過ぎる故にかえって笑えるほどおどけて見える、あの表情(;´Д`)ノ。あのシーンが、ベタだけど一番声上げて笑ったなぁ(笑)。
 夏木さんのところでも書いたことですが、やっぱり周囲が本当に安心して任せられる人ばかりだからこそ、彼も全力で遊べたのじゃないかと思う。役どころとしての遊びは勿論として、藤原くんが役者として全力で遊べたのじゃないかなと、彼の溌剌とした姿を見ていて思ったんですね。楽しそうだなぁと。いつだって一生懸命だろうし、全力でやっていることは間違いないんだけど、今回言う全力というのはそれとはまたちょっと違って、そう思いました。
 若々しくて生き生きしていて、本当に、ああ若いんだなと思った(笑)。当たり前のことを今更という感じだけど、それこそ彼が主役を張ったハムレットだとかの舞台の彼は、その役を生きる故に非常に孤高だったし、必死で悲壮で、痛々しいようなものが付きまとっていた。でも今回は、そこまで思いつめるようなものがなくて、周囲の役者さん達に「委ねられる」ということから生まれる伸びやかさみたいなものを感じた。これは頼っているということでなく。だから変な話、手放しに安心して見ていられました。
 蜷川さんと仕事をするようになって、多分間もない頃のエピソードだろうと思うのですが。藤原くんは蜷川の舞台の稽古期間中の帰り道、もう駄目だと思いつめるあまり、衝動的に車のハンドルを一気に切ってしまおうと思った*9ことがある、と以前どこかで聞いたことがあって。その話があまりに強烈だったので、藤原くんというと、私は未だにその印象が拭えないのです(笑)。
 今はそんなことはないのかもしれませんが、それでも蜷川さんとのお仕事をこなしている彼を終えた彼を見ると、時々「ああ、今回も無事、舞台から生還したのね」と思ったりして見ています。←どんなだ!

*1:この場合、最高の褒め言葉として言う

*2:夜公演のことです。芝居見ない方に念の為

*3:料亭とか和食を提供するようなお店で、従業員の皆さんが着ていらっしゃる着物は、ツーピースだったりしますのです

*4:失礼ですいません。タレントとしての彼女や、普通のドラマに出演している彼女はわりに好きなんですが、板に立った彼女が全然想像できなかったのです

*5:役者スタッフ含め

*6:やっぱり好き

*7:ロミオとジュリエットの例のシーンと思われる

*8:当時日本で特派員をしていた外国の方が、最古のご翻訳をなさったらしい

*9:それはつまりもう死んじゃおうかな的な衝動という意味でしょう