マルグリット デュラス「愛人」

愛人 ラマン (河出文庫)

愛人 ラマン (河出文庫)



 私は本と言ったら9分9厘小説というタイプの人間ですが、じゃあ小説なら何でも読むのかというと、かなり偏った読み方をしています。そんな私、先日相方と小説の話になり、「興味の薄い・手を付けていないジャンル(傾向)」についての話になったのです。
 その時、私が上げたのは、「SF小説」「恋愛小説」。そして「翻訳もの」「女性作家」というジャンルと傾向なのでした。これらのものにどうしても苦手意識が拭えなくて、未だにあまり積極的には手を伸ばさない*1。そうした私にとって、「海外」の「女性作家」による、「性愛」を扱ったこの小説は、本当に遠い場所にある作品なのでした。



 でも読みながら凄いな凄いなとただ思って読んで、そのまま気付けば読み終わってしまった。
 デュラス本人の自伝的な作品で、描かれている全てが濃厚で濃密。もっと「性愛」のみのお話なのじゃないかという先入観のようなものがあったのですが、それ以上に彼女の生まれ育った家庭環境、特に生活を共にしている肉親である母や二人の兄との特異な関係性が描かれていて、その辺りのことについて告白した描写には唸るばかり。*2 当然「愛人」である中国人の青年とのやりとりを語った様子は、感性豊かな表現で圧倒される。
 幼い少女であった主人公の、少女時代の特権だろう特有の潔癖さや感性で、性愛の体験を語っている。それだけで充分に衝撃的で、そればかりが話題として先行しそうだけれど、この作品の語りたいものは恐らくそこでなく、聡明な少女が、人間のもっと根源的な部分に半ば無自覚に向かいあっているところ。向かい合ってしまったが故に、デュラス本人の創作や彼女自身の全てが、その一点を無視しておくことを許さない。自分を決定付けた体験を、恥じらいなどによる躊躇やタブーを取り払って、真っ直ぐに見つめて掘り下げていく。その告白の持つ凄まじさが、この小説にはある。
 人間の思考が一瞬のうちにあちこち行き来するように、話は色々な情景をまるで思いつくまま順に語ったというように、ふわふわと意識のステージをスライドするのだけれど、そうして語られたこの小説に感じられるのは、足元の覚束なさではなく、一番深い部分に確乎としてある強い芯だ。



 多用される代名詞*3と共に、語られるエピソードの時間軸が幼い頃の記憶など差し挟みつつ短い間に相前後して現れる作風、一人称と三人称が地続きに変化する文章など、全体に彼女独特のリズムや色を生む癖になっている。それが読み進むうちに不思議な「くせ」になってくる。

 正直「面白かった」という言葉はすっと出て来ない。私にとってはこの作品に、面白いという言葉がしっくり来ない、ただただ圧倒されるような作品だったから。「海外の女性作家が性愛を扱った作品」という、自分にとって苦手な要素ばかりで出来上がった作品。今以外のタイミングでは、まるで判らないまま、終わってしまったかもしれないから、今読めてよかったなと思う作品でした。

*1:勿論例外は多少ある

*2:この本の中では、デュラスの家庭を襲ったあれこれには詳細な記述はなく、想像のみで補わざるを得ない部分があり、それにちょっと途惑うところもあるのだけど。それについては文庫版には、デュラスの他作品などから、丁寧な解説が付録についている

*3:個人的には、これが翻訳文学が苦手になった最大の特徴。日本の作品でも代名詞が多用されている作品には、苦手意識が強い。私の頭が極端に悪いのかもしれないが…。