僕らの音楽2。

 向井と林檎が出ていた。最初、どっちが主目的のゲストか判らないほど、ぼんやり見ていました。対談がもうちょっと盛り上がるというか、彼等の音楽に対してのあれこれを深く掘り下げる内容になるのかと勝手に思っていたら、わりにそうでもなく、8割方ごく普通の会話になっており、やや肩透かしを食らった格好(笑)。

 林檎は終始慎ましやか?で、あまりざっくばらんに突っ込んで行くタイプでもなさそうだし、向井も恐らく「言いたいことも考えていることも、表現は全て音楽で」みたいな感じだろうから、ああした内容の対談になるのも、結果当然ということなのかもしれない。私はどちらのことも深く知らないので、そんな風に感じましたよ、という話。
 ナンバガもZAZENにも共通して言えることだろうが、――つまり向井という人と、彼の打ち出す表現というものは、独特の強い吸引力を持っている、ということ。強烈な吸引力ゆえに、かえって同じかそれ以上の反発の力を生んでしまうことがあって、だから好みが別れやすいんだろうと、改めて思った。もっとも音楽が人を選んでいるという言い方もある訳で、どちらがいい悪いという話をしているのではない。
 ああした強烈な力に否応なく飲み込まれていくのは、きっと気持ちがいいだろう。音に身を委ねて飲み込まれたいという感情を抱く人の気持ちはよく判る。私はいつから、そういう欲求を持たなくなったんだっけ、などと考えてみたりもした。まあ、最初からそんなに、持ち合わせていない感情なのかもしれない(笑)。素直に飲み込まれられる人が、私はいつでもちょっと羨ましいんだ。
 向井の音楽を聴く人達にとって、向井という人はどういう存在なんだろう。ナンバガの、あるいはZAZENの音楽の吸引力に吸い寄せられる人々を見ていると、時折「懸命に縋ろうとしている」ように見えることがあって。もし仮に、向井がその対象になっているのだとしたら、向井はそれについて、どう感じるのだろうかというようなことを、よく考える。彼自身の身の振り方について考える時、私は向井の表現に触れている印象として、きっと「自立していたい/なにかに縋らずに生きていたい」と思っているのじゃないかと思うのだけど。その彼が誰かに「縋られる対象」になること(なる可能性)について、どんな風に受け止めているのだろうか。
 別に向井に限ったことじゃない。林檎もそうだし、そもそも音楽のアーティストに限ったことでもなく、有名になると、どうしてもそういう目線を持つ周囲が生まれてくる。それについて、受け止める側はどう受け止めているのだろうかと、ことあるごとに考えてしまう。有名になることの必然というか、黙って受け止めるべき責任、みたいなものとして、当然に背負うものなんだろうか。



 そういえば以前、音楽の趣味が被る友達に、ナンバガについて、「つっちぃ、ナンバガはどうよ?」と振られたことがある。当時音楽シーンにのして来た頃で、何気ない口調だったのに、なにか、探りを入れているみたいな質問だなと思った記憶がある。私は確か「BJCでおなか一杯」と答えた。だから何ということもない、何気ない会話だったのだが、妙に印象に残っていて、BJCだとかナンバガだとかいったバンドの話になると、今でもふと思い出す。連絡を取らなくなった友人との会話だからか。元気かな。