ちょっとした思い付き。

 私がサッカーを見ていて楽しいのは、サッカーそのものが楽しいということは勿論なのだけれど、恐らく、「サッカー選手」という存在が見ていて見飽きないから、というのが大きな理由の一つ。
 中でもとりわけ動作に独特な雰囲気のある、動作の一つ一つが特徴的なタイプの選手を好んで注視する傾向があるのですが、その理由は、「欠落した身体性を回復したい」という欲求が自分にあるからなのじゃないかと、今日、観戦からの帰宅の道すがら、ふと思いました。彼等の身体性の高さ(強さ?)に対する羨望が、原因じゃないのかと。


 こういう言葉の言い回しが正しいのか判らないけど、そんな風に突然思ったのです。身体性という言葉を正確に理解していないまま、感覚的に、ただそう思ったという話です。そういうことを真面目にお勉強なさっている方には、色々申し訳ない。そしてお恥ずかしい思いつきを、自分メモ的に書き連ねてみる。



 屋内で、PCに向かって一人孤独に文章を書く作業をしていると、作中での人物が「いかに作中で生きる姿を描けるか」にばかり、意識は集中するのですが。そうすればそうするだけ、実際の私の身体性は失われていくように感じる。結果、作中人物の身体性も乏しくなる。作中での精神性=没身体性ばかりが強調されるようになる、というような関係性にある気がする。
 以前なら、文面でのアウトプットと同時に、ダンスを踊ることでのアウトプットの方法があったから、その点でまだしもバランスが取れていたのかもしれないけど、踊ることを止めて、身体での表現という部分とのバランスが崩れているというような。
 そういうアンバランスな部分を、選手の身体性を食い入るように見て感じることで、補おうとする無意識の欲求でもあるのかもと。勿論そんなことで、自分の身体性は取り戻せはしないけれども。身体性の重要性みたいなものに、触れることが出来る、という気がした。のかな。

 彼等の身体性の高さ(現代人は身体性が弱まっているので、相対的に彼等の方がそれが強いと感じるけれど、あるいは彼等の方が本来標準的なのかもしれない)に対する、純然たる羨望。
 人の身体の持つ豊かさ、細やかさが、彼等の何気ない癖にあるような気がして、私はそれに惹かれるのかもしれない。動くこと、周囲の気配を感じて的確に反応する身体。そこに生まれる表現。

 文章の中に、そういうものが持ち込めるといい。うしなわれがちなものを、身体性の乏しい表現媒体の中だからこそ、豊かに細やかに再現出来たら、と。多分。でもその為に必要なのは、やはり私個人の身体性の回復、というよりもっと簡単に、色々な経験をして実際に感じろ、ということなんだろう。



 にしてもサッカーを見ていて、突然表現と身体性、その関連性なんて考え方が出てくる辺り、我ながらどうなのかと思う。もっと無心に観戦することは出来ないものか。