本日の糧と、漢字の表現。

  • サ力ダイの鈴木K太さん(意味なく仮名)(笑):表紙と巻頭インタヴュー。

 写真が非常にきれいだったので、思わず書店でびっくりした*1。それにしても彼は、本当になくてはならない選手になったよね。

  • 那須、久々サイトダイアリー更新:頑張れ…!

 以下は上記の巻頭インタヴューを読んで、漢字の表現について思ったことを。



 個人的にはインタヴュー中、「(現在浦和というチームが)自信を備えつつある」という表現が、その発想や彼の「チームの位置」に対する考え方などを透かしているようで、なんとなく目を引いた。「備える」という言葉の志向というか。あとその言葉が「〜つつある」と進行形で語られていることも、非常に興味深い。彼のそうした部分への感性の繊細さみたいなものが滲んでいる気がした。

 あと印象に残ったのは、これは彼本人というよりも、取材をした記者さんの言語感覚の問題なのですが。「チャンスを創る」、「(観客を)湧かせたいと想う」という風に、K太さんの言葉を書き表していたのね。「チャンスは創造するもの」と考えれば、創るという漢字の選択は確かにそうかなと思うのだが、「湧かせたいと『想う』」という表現は、個人的にはちょっと美しすぎやしないかと、想った←なんちて。それ、あまりにも願望めいてきこえやしませんか。湧かせたいと思うんじゃなくて、湧かせたいと想うのか、鈴木K太は…。

 まあ、取材した人の好みもあるだろうけど、サッカーの現場における言語の感覚の問題もあると思うので。その辺りが判らない私には、「創る」「想う」の変換を語ることなど本当は出来ない訳だが。あくまで私にとって「想う」という言葉(漢字)は、誰かを慕うみたいな時とか、過去の(それも比較的美しい)思い出を意識の俎上に手繰り寄せるみたいな時に使う他、日常の現場で使う用語ではないんだなと気付いた。
 しかしあの記事中、記者が「思う」でなく「想う」にしたのは、やはり何がしか、そこに意図があるんだと思うのね。敢えて、想うに変換することで、記者の人はそこに「思う」こと以上の何かを、こめたかったのじゃないかと思うのよ。それが記者自身の手癖と、美学や感傷である場合も含め。……この場合文筆業の人だけに、単なる手癖だったら、ちょっと嫌だなぁ(笑)。あのインタヴュー記事の脈絡から言って、「湧かせたいと想う」と書いてしまうと、そう答えた彼にとって「湧かせたい」という希望が、ちょっと果たせない夢、みたいな遠い分だけ美しい希望のように感じられる気がするんだよね…。ああ、でもこれは私だけの感覚なんだろうな…。「思う」の方が、より現実的な思考を指す気がするので、この場合は「湧かせたいと思う」の方が、私にはしっくりくる気がする。

 私の感覚がおかしいのかもしれず、この問題は突き詰めても答えが出ないことのような気がするんだけど。ともあれ、私が記事を読んだ時、「想う」という変換である部分に込められたものが何なのか、上手く汲むことが出来なくて、勝手にもにょってしまったという話でした。
 日本語は難しいね。途惑うと戸惑う、きれいと奇麗と綺麗、とか。あるいは、漢字にするかひらがなに開くかとか。考え出すとキリがないんだよな…。
 漢字かひらがなか、という問題に関しては、ひらく方向に向かう方が、自然な流れだろうなとは思っているのだが。私はどうにも湿度むんむんのキモい文章ばかり書いていて、それに馴染んでいる為なのか、ひらく方向へ向かっていけないところがあります。その辺りの拘泥(というか屈託というかなんと言うか)を上手く説明出来ないんですけど。私のそういう言語の感覚を、私以外の人は違和感を持って読むのだろう。おもしろいなぁ。そういう部分に違和感が湧かない作家を、概ね人は読みやすいと感じるし、好きになるんだろうな。
 
 雑誌の記事以外のところで、この表現は、みたいなことを幾つか考えたのだけど(日常そんなことばかり考えているタイプ…)、今、ぱっと思い出せないので、とりあえず寝ます。

*1:失礼な。いやいやいや、彼をきれいな人だとは前から思っていますが、自分の思っている以上に、彼の魅力的な表情を映した写真だったという意味ですよ