劇場中継、「赤鬼 THAI Ver.」雑感。

 今日放送されていた「赤鬼」は、以前一度どこかの劇場中継で、英語のバージョンを見たことがある。当然、話の筋書きは判っている。だから本当は、途中からゲトスポのサッカー特集を掴まえよう、なんてことを考えながら見始めた(笑)。でもいざ芝居が始まったら、ものも30秒も立たないうち、芝居に集中してしまって、ゲトスポのことはすっかり頭の中から消えてしまっていたのでした。気が付いたら芝居が終盤で、ゲトスポなんかとっくに終わって、試験放送でしたよ。そんなものだわー。
 以下、非常に長くまとまりのない雑感。




 それにしてもこのところ立て続けに、好きな演出家や、役者の出演している芝居が流れていて嬉しい。この前は野田MAPの「オイル」をやってたし、今日は「赤鬼 THAI Ver.」。どちらも生では見られていないのだが、それでもまるで見られないよりはね。特に野田作品は、見ると見られないとでは、あまりにその差が大きい芝居だから。
 戯曲も書くし、役者としても出演のある野田だけど、私は個人的に演出家としての野田が好きなのだと思う。芝居なんてそんなものだろうと言われればそれまでだが、この人の作品ほど「戯曲だけ読んでも、この人の芝居は半分も理解できないな」と思うものもない気がする。それくらい、私にとって野田の演出は圧倒的で、クリエイティブなものとして受け取られているのだろう*1

 でもそれだけ毎回演出が新鮮で、全く飽きさせないってことだよね。今回の中継は、
04年シアターコクーンでの公演のもので、この時はタイバージョンの他、英語、日本語の全3バージョンを一挙に公演、その中の一つ。恐らく3バージョン、全て、演出が違っていただろうと思う。ちなみに私が以前見たという中継は、イギリスで行った公演のものだったと思う。それと、04年の英語版の公演も、やはり違う演出にしたのじゃないかと思う(さっきから想像だけで語っています)ので、ますます大変だな…と思った。と、同時に、どんだけアイディアの引き出しがあるんだろうと、ちょっと呆然とした。スタッフや出演者が違うとはいえ、一体どれだけ違うが演出できるんだろう。演出家ってばけものだ…(最大級の賛辞として!)。




 以前見た海外公演での英語版と比べると、今回のタイ版は、歌やリズムといった部分でタイの役者さん達の持っている文化がフィーチャーされていて、芝居の中に、土着の空気が強く流れていた。
 小さな浜辺に異人が漂着して、異文化との疎通の問題を描いた話なので、浜の住人が結束して異人を排斥しようとしたりするシーン等で、それがより強く印象に残った。人と人との濃密な血の繋がりで出来上がったコミュニティというか、土地そのものに対する生命としての根付き方みたいなものが、今回の演出では特に深くなって見えたというか。
 人と人との距離が、すごく近いように見えた。物理的な距離も実際そうだったのかもしれないけど、それは演出としてそうしたというより、演じる側のタイの役者さん達の日常の感覚が、舞台に単純に持ち込まれていたように思う。それが英語版と違っていて、すごく面白いなと思った。役者が変われば、芝居は当然変わる。文化が変われば、如実に芝居は変わるのだと思った。

 詳しくないし一概には言えないだろうけど、ヨーロッパの国とアジアとでは、好ましいと感じる対人距離が違っていて、一般にアジアの国の人の方が、より近い距離にまで、相手が接近することを許せる(不快に感じない)と言われる*2。そういう、育って来た文化の差、そのものが演出の一部になって見えた。
 英語版は肌身を寄せ合って怯えたり、激昂して言い争いをしていても、全てのシーンで、どこかもうちょっとクールに見えた。同じ筋書きで、結託して異人を排斥していても、結託の繋がりは「隣の家との付き合い」「単に多くのものを共有している人同士」という感じで、タイ版のように「深く長く、血の繋がりとして繋がっている付き合い」という風には見えなかった。それは、人と人との距離感があったからなんだと思う。
 もっとも、タイ版の設定として、登場人物達が血縁だとは一言も語られていないので、それは単に私にそう見えたということでしかない、私の偏見的な印象でしかないかもしれないのだが。私には、タイ版の方の人の繋がりが、相反する感情を抱いていてすら、離れることをしない(あるいは離れられない)関係が、触れ合う人達の裏に潜んでいるように感じられて、それを文化の差かもしれないと感じたということが、面白かったよという感想です。

 よく絶望を口にしていた主人公の女性「フク」が、異人と出会って、いつしか絶望という言葉を語らなくなる。けれども物語の最後、フクの兄「とんび」が『俺は母の絶望も、妹の絶望も判らなかった。でも少しずつ判って来た気がする』と言う。「少し足りない」と周囲の誰からも相手にされなかった彼だけが、物語の最初から最後まで明るく、楽しく、笑っている。その彼が穏やかに、『妹は一番最後まで笑い続けていた、でもあの時、妹は絶望していたのかもしれない』と穏やかに語る時、胸に迫る寂寥は、あまりにも切ない。





 ところで日本版は、私が愛して病まない役者・大倉孝二が出演していた筈なのだが、配役は「とんび」だったのでしょうか。というか、大倉が赤鬼に出演すると聞いた瞬間から、「とんび」以外の役を振られる大倉が、想像出来ない訳ですが。寧ろ、今、大倉以外の誰があの役を演じられるのか、という話。ああ、見たかった…。しかも「フク」が小西真奈美なんだよ……(;´Д`)?! その配役、素晴らしすぎる…! …(;´Д`)ハァハァが止まりません。好きだ、大倉!

*1:ちなみに鴻上尚史も好きなのですが、彼の場合、私の中では劇作家(脚本)としての比重が重いです

*2:サッカーで言えばプレイディスタンスが狭いってことか?(違)。その点において日本人は、どちらかといえばヨーロッパの国に近くて、日本人はアジアの国でもやや例外的に、対人距離を広く保ちたがる修正があるらしい。