ハマトラの蒔いた種。

 先日のFC東京戦で配布されたものを最後に、ハマトラが休刊になったそうです*1。残念だ…。幸い、最後のハマトラの内容は、こちらで読むことが出来ました。先日の浦和戦で起きた断幕に関する遣り取りの全貌が、横浜のサポーターの視点で赤裸々に語られています。これは、横浜を応援していない方でも、何があったのか知りたい方には、こちらで事情が判るのではないかと思います。
→【http://www.doblog.com/weblog/myblog/7844/2447142#2447142
 毎度毎度、話題が2・3日遅れているブログで申し訳ないのですが、今回は休刊となったハマトラを惜しむエントリです。一年強の間、沢山の力をくれました。楽しませてくれて本当にありがとう。



 正直なところを話すと、最初はエイプリルフールのネタなのではと疑う気持ちが少しありました。何しろ配布日が4月1日だったので。というか、ネタならいいなと思っていた。ネタで終わらせて欲しいという僅かな希望を抱いて、「休刊」ということを、ここにも書かずにおいたのですが、やはり休刊は休刊ということのようです。それはそうですよね、休刊なんて、そんな大事なこと、やはりネタにはしないでしょう…。今はとても残念な気持ちで一杯です。私は4月1日に会場に足を運べなかったので、最後のハマトラを入手できなかったことも、重ねて残念でなりません。欲しかったな…。
 作られていた方・配布されていた方のお手伝いを、私はさせていただいたことがなかったので、今更になって「残念」などと一部の方にはもしかしたら不快に思われるかもしれません。でもすごく大好きで、観戦に行けば必ず貰って熟読していました。私はチケットのカテゴリで言えば「自由席」でしたが、殆ど必ず二階バック寄り観戦で、また基本横浜のサポーターの方にお知り合いもいないので、所謂サポーターのグループの感じ、考えていること、その動向をなかなか知ることが出来ません。私にとってはハマトラが、所謂ゴール裏のサポーターの方々の考えることや思い、やりたいことを知ることが出来る、大切なアイテムでした。



 話が少しずれるようですが、なにがしかの表現をして、それに対する反応を貰うということは、とても難しいことです。それが賞賛の声であれ、罵声であれ。ネットでの、ブログみたいなもののレスポンスの安易さ*2に慣れてしまうと、忘れがちな、あるいは考え付かないことかもしれませんが、人に感想を貰うということは、簡単なことではありません。私は一時期舞台に出ていたり、その関係などで色々な表現と向き合っている方々とそうした話をする機会もあって、自分なりにそうしたことについて考える機会もありましたが、その中でまず一番に学んだのは、「人の反応を貰うということは本当に難しいことだ」ということのような気がします。人に反応を貰う為に、まずは「相手に伝え」なければならない。伝えるということが、簡単そうで、実は非常に困難なことなのです。

 人は、そう簡単には動かない。たとえ指一本でも、人は相手の為にはなかなか動きません。勿論好意で動かしてくれることもあるけれど、大概は「自分の為」だと思うからこそ、動かそうとする。だから、相手の心を動かさない限り、「反応」を貰うことは出来ません。なにかリアクションを求めるなら、相手の心を動かす為に、時間を掛けて、何度でも、同じことを繰り返す必要があるのです。表現するということは、おそらくどういうものあれ、「継続」を必要とする作業なのだと思うのです。
 そして自分のすることや言い表したいことを、まず「相手に伝える」為に、沢山の時間を必要とします。その間、相手に伝える行動を「継続」し続けなければなりません。その間、なんの手応えも貰えなくても、です。その間、自分のすることに疑問を抱いたり、自分のやり方に迷っても、それでも「こうだ」と思うことを一つ貫くこと。懸命にやりぬくこと。それを継続していくということが、いつか何年後かあるいは何十年後かに、「継続し続けた姿」として、誰かの目にとまるのです。それだけの長い持続の時間をかけるからこそ、いつか「その時」が来た時、誰かの反応を貰える、成長した「表現」になっているのだ、と思っている。そしてたとえもし何年経っても、全くその行動が人の目に留まらなかったとしても、その行動をし続けたことの結果としての手応えが、感じられるようになるのだと、私は思っています。表現するということは、たとえ誰かと共に行っているとしても、常にどこかで「孤独感」と戦い続けることでもあるのです。



 ハマトラがゴール裏から1年強、発信し続けたものは、上記であげた例より、更に難しいことを目標にしていました。ハマトラは、ハマトラに対しての反応――掲載された記事が面白かったよとか、これは違うと思うけどとか、そんな反応を求めていたのではない*3。本当に求めていたことは、横浜のゴール裏が少しでも手を叩き、声を上げ、歌い、跳ねる場所になるように、もっと多くの人が自覚的に応援をする場所になるようになること。ゴール裏の住人の「意識の変革」を目指して、ハマトラは配布されていたのではないかと思います。
 何がしかの反応を貰うことだって難しい、時間のかかることです。でもハマトラはその先を求めて創刊され、配布されてきた。人が本当に「変わる」までには、上記の例以上の時間と、その間に相手の気持ちを絶えず揺さぶり続ける力を与え続けなければなりません。それを実現するには、一年強という時間は、あまりにも短かい期間です。もし一年強でその目標を達成できると思っていたのなら、厳しい言い方でしょうが、それは見込みが甘かったように思います。ただこれは、そうした面をのみ考えればの話。
 人の気持ちは、というか、人の意識を変えていくということには、非常な力と、時間が必要なことなのです。人の意識を変える為には、相手以上の気持ちと力を与え続けなければいけない。時にかなり無尽蔵な根気が必要になる。ゴール裏に入場する人に、無料で配り続けたわけですから、そうした部分での負担もきっと大きかったはず。その努力を一年し続けたことは、本当に大変なことだっただろうと思います。
 ハマトラを貰う側の人には、一年はさほど長くない時間だったかもしれません。何しろ人によっては、スタジアムに観戦に行く回数が一年に数えるほどという人も、大勢いらっしゃるでしょう。そうした人にとってのハマトラの一年強は(作り続けてくれた方には残酷な言い方になるけれど)、さらりと過ぎてしまう時間だったかもしれない。けれど、ハマトラを作り続けた方々にとって、この一年強は、非常に密度の高い、長い時間だったことだろうと思います。その中で感じた、手応えの無いものに一定の力を注ぎ続けることの困難さ、大変さは、おこがましいけれど、すごくよく判る。手応えの無い場所へ、気持ちを力を傾け続けることに疲れてしまったのだとしたら、その気持ちも、やはりよく判ります。これまでの一年強の間、ハマトラを作り配布されて来た方々の、それに傾けて来た情熱と時間に、まず最大限の敬意を表したいと思います。

 この一年強で、ハマトラはゴール裏に何の変化も与えられなかったと、ハマトラ制作に携わった方々は無念に思われているでしょうか。でももし一年強の時間で、劇的に起きる変化があったとしたら、それは多分、すぐに破綻してしまったと思います。
 性急な変化は、無理が祟ってすぐに破綻する。そういう意味では、ゴール裏がこの一年で性急に変化しなかったことに、見ようによっては救いもあるかもしれません。まだ変化は微弱にしか起きていない。そういう状態なら、破綻しない、ゆっくりでも本当の意味での変化を、していく余地があるということでもあるからです。
 
 この一年強の間、ハマトラを作って配布し続けた方々の努力は、決して無駄ではありません。このハマトラが、目には見えない変化を少しずつでも、起こしていたのではないかと思うのです。ハマトラは、横浜ゴール裏に小さな種を植え付けたのじゃないかと思います。もう誰かの中では、その芽が出ているかもしれない。でも他の誰かの中では、種を植え付けられたことにすら、無自覚なままかもしれません。でも、種が植え付けられたことは、事実です。
 ハマトラは休刊になったけれど、それはハマトラを作って配布されてきた方々の「種を蒔く」作業が終わった、ということだと思います。だからこれは終わりじゃない。後は、それぞれが育てていく作業になったということです。バトンが受け渡されるように蒔かれた種を、これから私達がどう育てていくのか。それがこれからの横浜のゴール裏を変えていく、一つの動きになるのでしょう。ハマトラを作って配布し続けた方々の努力を、無駄にしない為にも、一人一人が考えて、少しずつでも行動を起こして。種の芽が出るように、あるいは顔を出した芽がもっと育つように、スタジアムをより良い場所に変えていけたら素敵だなと思います。
 ちっぽけなことで恐縮ですが、私はハマトラを読むようになったからこそ、一人でも二階で大きな手拍子や、声を出しての応援を意識して行うようになりました。それから、また来たいと思えるきれいなスタジアムになるように、帰りは目に付いたゴミを拾い集めることとか。些細でも、行動するようになりました。本当に些細なので恥ずかしいのですけど…。ハマトラの制作に関わった方は、がっかりされているかもしれません。それでも、私が初めてスタジアムにサッカーを見に行くようになった頃には、「そうした方がいいんだろう」と心の中で思っても、行動に起こすまでには至っていなかった。今は違う。小さいけれど変化があったということを伝えられたらと思って、恥を忍んで書きました。こうして、ブログで何がしか、横浜に関わるエントリを書くこともそうです。
 多分、こういう小さな変化は、「その程度か」と馬鹿にされるかもと反応が怖くて、敢えて誰も口にしないのだと思うのです。でも変化は変化です。この小さな変化を大切にして、その小さな変化がいずれ積み重なって、あるいは多くの小さな変化が寄り集まって、いつか大きな変化に「見える」のです。

 普段ゴール裏で一生懸命応援している方には、私のようなチームへの関わり方を「ぬるい」と感じて、時に苛立たしく思われる方も、中にはおられるのではないかと思うのですが。出来たら、「こういう関わり方・応援の仕方をする人間もいる」ということを、認めて頂ければと思います。7万人収容できるスタジアムですから、その場には多くの人間が集まります。集まった人一人一人で、価値観も考え方も違います。だから、チームに対する気持ちの傾け方や関わり方も、当然違った形をしています。自分の生活の中心にチームの応援をおいて、アウェーのどこにでも駆けつけられる気持ちの人がいます。自分の都合のついた時にだけ、観戦に訪れる人もいます。試合中に手を叩き、飛び跳ね、声を枯らして応援する人もいれば、そうでない人もいる。でも、どちらかが絶対で、一方だけが正しいということは、私はないと思うのです。勿論、出来れば手を叩く方が応援は盛り上がるでしょうし、声を出す方が選手には届くでしょう。きっとその方がいい、多くの人がそう思っているように思います。でもだからといって、その方法だけが正しいと決めて、それを強要することは、違うように思います。強要されれば、強要された側はきっと反発します。「そうした方がいい」と心のどこかで思っていてすら、反発する気持ちを覚えると思うのです。それは、自分を否定されたという気持ちになるからです。自分を否定されて、嬉しい気持ちにはならないからです。嬉しくないことに、人は決して力を貸しません。多分、私は強要されることに対しては、そうなると思う。第一、強要されてやっていることは、ちっとも楽しくない。
 今、あまり派手に応援をしていない人は、声に出さなくても、一生懸命に声を枯らして応援している人を認め、リスペクトしていると思います。だから今、既に多くの行動をされている方には、どうかそういう気持ちを、少しだけ、感じてもらえれば有難いのです。「急には変わらない人がいる」ということ、「自分達より穏やかな形でチームに関わろうとする人がいる」こと。自分と相手の「違うところ」を、許容して欲しいなと思います。今起きた小さな変化を「そんなもの」と否定されてしまえば、その人は二度と心を開かなくなる。応援に対して、頑なになります。
 いつもゴール裏の中心で体力と気力の限界まで応援している方には、そうでない人に「少しずつでもいい」と許容すること。また普段穏やかに観戦をされている方には、一生懸命応援されている方から時に感じる温度差を「一緒に変わって行こう」と伝える意思だと尊重すること。そういう風に皆が相手を思うことが出来れば、いつかスタジアムという場所が、本当の意味でいいホームに、選手達を応援する一つの大きな受け皿になれる日が来るでしょう。とても大きな目標だけれど、まるで実現不可能なことでもないように思います。



 あと何年後、あるいはもっと先に、ハマトラが蒔いた種が、きっと花を咲かせる日が来るように。私はまず、この行動を「継続」すること、そして自分なりに出来ることを増やしていくことで、ハマトラに分けてもらった種を育てて行こうと思います。
 ハマトラの制作・配布に携わっていた全ての方に、今まで本当にありがとう。いつか、何か別の形でも、またハマトラに会える日が来るのを願っています。



【追記】文章が拙い為に、上記エントリーによってご不快や誤解を招いた部分があるようです。下記記事に補足をさせて頂きましたので、お手数ですがそちらも目を通して頂ければと思います。ご迷惑をおかけします。
→【補記。 - *Bootleg05*

*1:今更ですが、ハマトラとは横浜のゴール裏サポーターの有志が作っていたフリーペーパーです。横浜サポ以外の方の為に、念の為

*2:言葉が悪くてごめんなさい。ただネットでの反応は、速度ばかりが偏重されるが故に、一部で非常に脊髄反射なものも多く、内容が追いやられがちなものも目に付くので、本物の「反応」が戻ることは少なく感じるので、敢えてこう書きました。

*3:いえ、勿論そうした反応が返ることは、ハマトラを作る現場に携わっていた方々にとって、とても嬉しいものだったでしょうし、求めていたとは思いますけれども